4年ほど前にめがねを十数年ぶりに買いかえました。それまでのめがねはまだ使えたのですが、強度の近視のため、就寝中に地震がきてめがねが吹っ飛んでなくなったら生活できなくなるので非常時の袋に予備のめがねを入れておこうと考えたからです。なんでもそうですが、十数年前とくらべてレンズもよくなって、しかも安い。すごいなあと思います。

デザインが少しシャープになったので、きつい感じに見えるかな、ってスタッフに聞いたら、元々怖がられているから一緒じゃあないですか、といわれてしまいました。確かに忙しくなると(なくても?)顔が怖くなっているだろうことは否定できません。そこで皆さんに少しでも親しみをもってもらうべく、私自身のことについて思いつくままにカミングアウトしてみようと思います。

私は天王寺の病院で産まれました。未熟児で、一時生死の境をさまよい、治療の副作用で失明するかもしれないので覚悟しておいてくださいと主治医の先生からはいわれていたそうです。しかし先生の懸命な治療のおかげで無事育つことができ、今となっては治療を受け持つ立場となることができました。子供の頃に母からその話を聞き、先生に感謝するとともに憧れも抱き、それが医師の道を志すきっかけの一つになったと思います。

幼稚園に入るまでは柏原の安堂で暮らしました。裏のぶどう畑で遊ばせてもらい、よくぶどうを頂いたことを覚えています。近くに大和川が流れていて、母によく散歩に連れて行ってもらいました。近鉄道明寺線とJRの鉄橋があり、そこで必ず電車とデゴイチをみるのが日課だったそうです。以後現在も鉄道に対する愛は変わりません。

幼稚園に入る頃に富田林市へ引っ越しました。いわゆる金剛地区の方です。まだ開発が始まったばかりの頃で、周りには野山や空地が拡がり、小学校の時は結構泥だらけになって遊んでいました。空地の水溜りからおたまじゃくしを取ってきて家で蛙にしたり、カマキリの卵を部屋の中で孵化させてえらく怒られたこともあります。そんな折、急に父親から塾に行くように言われ、いやいや通うようになりました。今では塾通いも当たり前ですが、当時は塾に行く友人もなく、なんでやねんと思いながら通っていました。

小学校5年のころでしたでしょうか、テレビでプロ野球をみていて、ケガをして手術をうけ、必死でがんばって復帰した選手がインタビューをうけているのをみました。人目をはばからずうれし泣きしているのをみて、自分はプロ野球選手にはなれないけど、人を助けて一緒にその喜びを分かち合えたらいいなあと思うようになりました。そして医師になることを真剣に考えるようになりました。

そうなると勉強をたくさんしないとだめだということに気づき、勉強にも身が入るようになりました。おかげである程度名の知れた中学・高校には進むことができましたが、高校の時に行き詰まり、大学受験はかなり苦労しました。そして大阪医大(高槻)に何とか入ることができ、医師になりたいという念願はかないました。

大学に入り、サッカー部に入部しました。それまでまともに運動というものをしてこなかった体は悲鳴をあげ、右膝を痛めてしまいました。大学病院の救急に運ばれ、靭帯損傷と診断。指示に従い治療を受けました。ところがその後ささいなことで痛みは再発。その都度診察を受けても靭帯だから、筋肉を鍛えるしかないといわれるだけ。がんばって鍛えました。でも痛みは繰り返し起こり、結局まともにサッカーできないまま卒業をむかえました。

そしてこの後、私が整形外科を、そして膝関節外科を学ぼうとするきっかけになったエピソードが続きます。続きは次回に。。。